台高山脈の大台ケ原へ行ってきた。
台高山脈の日出ヶ岳へ日の出を拝みに来た。
— NR (@NRMeizin) November 30, 2025
綺麗な朝焼けで、大峯奥駈道もよく見えて感慨深い。 pic.twitter.com/30dJCbaYlW
明日で通行止めになる、大台ケ原を満喫できた。 pic.twitter.com/xUwFUJKmg8
— NR (@NRMeizin) November 30, 2025
前回の大台ケ原
↑9月中旬に堂倉谷の途中「日出ヶ岳」を訪れ、2ヶ月半ぶりの台高山脈になる。
いきさつ
今年2025年は、幾度と大峯奥駈道を歩かせてもらっている。
そのため大峰山脈の山座同定が、少しは出来るんじゃないかなと思った。
そして歩いた大峯奥駈道を、一望したい。
あとは、大蛇嵓や北大台も行ったこと無いので一度見てみたいのがあった。
なお大台ケ原ドライブウェイは、2025年12月1日~2026年4月20日まで通行止めになる。
11月30日の日曜日が、最後の週末となる。
ルート

距離:16.1km(+1088)
ルート:大台ヶ原Pー日出ヶ岳ー正木ヶ原ー石牛ヶ原ー大蛇嵓ー大台ヶ原P
-三津河落山ー大和岳ー大台ヶ原P

今回は、「東大台・北大台」を歩く。
ただ大台ヶ原は、環境省により管理エリアがある。
・「西大台」は、利用調整地区になっている。
その為区域内入るには、事前に申請手続きが必要になります。
・「北大台」は、地図上では植生保護の為立入禁止になっている。
大台ヶ原ビジターセンターに聞くと・・
コースを外れたり植生を荒らさなければ自己責任のもと入山しても良いとのこと。
・「東大台」は、自由に入山可能。

↑10年程前に、西大台地区内にある「中ノ滝・西ノ滝」は、レクチャーを受講し入山した。
15/10/3-4 中の滝(台高)
15/10/18 西の滝(台高)
↑その当時書いた備忘録
スタート

大台ケ原駐車場
スマホで適当に空を向けて撮影した。
駐車場着いたら、満天の星空が広がっていた。
昨晩肉の日で、松屋で大食いが影響したのか眠りが浅かった(笑)
日の出を拝みたくて、夜明け前から歩きはじめる。
ヘッデン点けて歩いてると、若い方々(スマホのライト片手に、普段着の装い)にぶち抜かれる。
ハンドバッグやサンダルの方々や、色んな方が居られるな。

熊野灘展望台
東の空が黄色く焼けてきた。
雲が多いな。。
今日は富士山を拝めないか・・
先週友人は、ここから富士山拝めたみたいだ。
日出ヶ岳

日出ヶ岳山頂展望台
日の出を待つことにする。
既に10人程展望台に居られた。
展望台周りにも、8人程居られた。
そこで三脚で日の出待ちの御所の方と談笑する。

地球影とビーナスベルトの大峯奥駈道
日の出前、大峰山脈にビーナスベルトが見えた。
地球の影で、赤い光が青い空と混ざってピンクに染まるみたいだ。
もっと綺麗なピンクになる時もあるので、何時か見てみたいね。

避雷針と日の出
日の出が出たら、みんながざわつき教えてくれる。

熊野灘から日の出が出る

正木ヶ原方面

台高山脈北部方面

大峯奥駈道
北の山上ヶ岳から陽が当たりはじめ、南の八経ヶ岳や釈迦ヶ岳へと次第に陽が当たっていく。
素敵なマジックアワーを拝めていい時間だ。

それでは大蛇嵓へ向けて歩きはじめる


正木ヶ原
今日で2回目の正木ヶ原。
前回雲多くて何も見えなかった。。
晴れてたら、こんな景色が見えるんだ。
左に熊野灘、右に大峯奥駈道を見渡しながら歩く。
牛石ヶ原

神武天皇像
1928年(昭和3)、神武天皇銅像の除幕式が行われた。
大台ヶ原開山の父であり、神習教福寿大台教会教長の古川嵩が推進した。
2mを越す神武像は、本体が4,500kg、金鵄と弓が68kg、太刀が83kgで、総重量4.6t余りとなる。大阪市生野区の大谷鋳造所で製造され、6分割して、尾鷲→木津→水無峠→木組峠→堂倉山→牛石ヶ原のルートを使い、人力で運ばれた。
杣道は木馬、急登や岩場は人の手を使い、運搬作業だけで80日を要した。
到着後は、鋳物師が鞴(ふいご)を使って本体を溶接し、丸太で組んだ三又に滑車と万力を取り付け、吊り上げて設置した。
神武天皇とは・・・
名は、神日本磐余彦
。
日向
を出て瀬戸内海を東へ進み、大和を平定して前660年橿原宮
で即位したと伝えられる。
なぜここに神武天皇なのか・・・
熊野の二鬼島に上陸し大台ヶ原を越えて吉野へ出る際、大台ヶ原のここでうとうとし石に腰掛けられ休息されたことからと伝えられる。腰掛石は、銅像の背後の石を指す。
製造された大谷鋳造所とは・・・
室町時代より続く「大谷相模大掾藤原正次」の家系で、神武像は大谷相模大掾二十八世藤原隆義によって鋳造された。釈迦ヶ岳の釈迦如来像、大日岳の大日如来像、椽ノ鼻の蔵王権現像も、大谷鋳造所で鋳造された。
弓の先端の鳥は何・・・
郷道者の八咫烏だとしてもよいのだが。。
三本足であると八咫烏だと断言できるのだが、三本足ない、、
トビのなか、カラスなのか不明であるみたいだ。
深入りするのは、罰当たりだと言われている。
ところで、牛石ヶ原だから「牛石」があるんだと思った。
その時、神武天皇像の横が「牛石」かと思った。
調べると像の横は、「腰掛石」となっている。
像の向かいに鎮座している石が、「牛石」みたいだ。。
(看板立てて欲しい、、)
今から約300年前、天台宗の丹誠上人が法力によってたくさんの妖怪変化をこの石に閉じ込めたところ、不思議なことに岩が牛の形になったという伝説がある。
上北山村では、この牛石をたたくと雨が降ると言い伝えられている。
牛石を過ぎると池(穴が掘られたと思った、、)がある。
そこは明治7(1874)年、大峯奥駈道での千日修行の後、実利行者がこの地で修行したと言われる。
シオカラ谷源流に実利行者の庵があったみたいだ。
修験道禁止令があり、当時の修験道を取り巻く環境は厳しく、苦難をものともせず大台ヶ原で修行を続け、やがて実利行者を慕う多くの信者が牛石ヶ原に登るようになり、奈良県官はその影響力を懸念、庵は焼き捨てられ、実利行者は追放された。
池の手前の石碑は、八大竜王碑と実利行者碑があるみたいだが、あったかな、、、
林 実利(はやし じつかが) 1843ー1884年
「実利行者の足跡めぐり」サイトより引用
実利行者は天保14年(1843)岐阜県坂下に生まれ、俗名は林喜代八といいました。出家以前は御嶽講に参加、その他にも修行あるいは宗教的な活動を行っていました。慶応3年(1867)25歳の時に出家、名山霊場神祠仏刹を巡拝の後大峯山に入り修行、笙の窟、深仙宿で千日行を行いました。厳しい修行や功績が認められ、伯爵のほか、宮家、聖護院、財閥などと信仰上の関係ができました。そのころ有栖川宮家御殿普請の鎮宅祈祷をした際、有栖川宮より直々に、役行者に次ぐすぐれた山伏を意味する『大峯山二代行者実利師』という号を授けられました。その後大台ヶ原、怒田宿、那智で千日行を行いました。明治11年7月から明治13年3月までの間には中部、関東、東北地方の名だたる霊場を巡礼。同13年には仏生講が結成され、仏生講は行者の出身地の岐阜県を始め、奈良県、大阪府、長野県、静岡県、富山県、千葉県に及びました。明治15年から同16年、生涯最後の事業であった怒田宿の再建と共に大峯山道を復興。これにより、壊れて迂回を余儀なくされていた大峯奥駈け全行程の修行が可能になりました。明治17年(1884)4月21日、衆生済度平等利益の誓願を果たすべく、最後の那智冬籠もりの修行を終え、修験道最高の聖地とされる那智大滝の天辺より捨身入定しました。享年42歳でした。
牛石ヶ原には色んな歴史があったんだなと感じた。
神武天皇像では礼拝させてもらったが、池を通過したのが心残りだ。

ここからも、日出ヶ岳山頂や正木嶺を望むことができる
それでは大蛇嵓へと歩いて行く。
大蛇嵓

蒸篭嵓
クライミングルートで有名な、「ブッシュマン」と言うみたいだ。
確かにブッシュが多いから、その名が付けられたのかな、、

大蛇嵓
800mの断崖絶壁を見下ろすことができる。
そして大峰山脈を一望できる。
丁度8人程のパーティが居られ、順番待ち(数分)。

先端に立ち大峰山脈を眺める

北方面
大峰山脈(左)、西大台(眼下)、北大台(中)が見える。

「中の滝」上段が見える

南方面

帰る頃、柵に陽が当たる。
ここは、昼間来る方が岩全体に陽が当たりいいと感じた。
けれど朝は、人が少なくてのんびりできる。
風が抜けて寒いが、、
少し戻って、蒸篭嵓を眺めれる所で大休止した。

巨木ナラ
コブがまたいいね。
シオカラ谷

オブジェ(笑)
幹の中に石が押し込まれている。
シオカラ谷吊橋手前にある。
大蛇嵓から一気に下って行く。。

氷と吊橋
谷の水は、薄く凍る。

ナメ滝 120m
ナメ滝がつづく。
水が少なくて、ベルグラ(岩の表面に張った薄い氷)で歩くのが怖かった。
小滝が出てきたとこで、引き返した。

ブナやナラの森を歩く
シオカラ谷から急登(階段)を登る。
美しい森へと変わる。
歩きやすいトラバース道。
途中、チラッと大峰山脈を見渡せれる。

大台ケ原駐車場
駆け込みの登山者で満車かと思いきや、ガラガラだった。
結び
天気に恵まれ、大峯奥駈道など紀伊半島の山々を見渡すことができた。
大蛇嵓から久々中ノ滝を拝めたのは、とても嬉しかった。
そして色々な歴史ある牛石ヶ原も、新たな発見ができた。






