自走で高見越をしてきた。
2日目は、松阪から家まで帰る。
2日目。
— NR (@NRMeizin) March 31, 2024
松坂城を徘徊していたら、サイクリスト(70歳)の方が城下町を案内してくれた。とても勉強になったし、楽しい時間だった。
市内のととや(和食屋)経営しているご主人だった。またお逢いしがてら、食べに行きたい。優しすぎてお別れの時は、うるっときたな。
あとはのんびり帰って行きます。 pic.twitter.com/uH3shxg8Dk
前回から続き
前夜
慣れ親しむ紀伊半島。
泊まれる場所は、ぼちぼちと知っているのでそこでテントを張らしてもらった。
ステラリッジ1(モンベル)
久しぶりにステラリッジ1で寝る。
組み立て方どうだったかなと、思い出しながら組み立てる。
到着時暑くてポリゴンも厚手靴下も着ずに寝ていたが、夜中寒くて目が覚める。
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スタート
立梅井堰
轟音だった。
帰宅後調べたら、ダムカードもあるみたいだ。
いつかゲットしに行きたいね。
ソメイヨシノ
咲き始めだな。
1週間後は綺麗だろうな。
早朝の国道166号線
国道と並走する脇道とか走ったが、自転車でここは初めて通る道。
昼間なら車多いけど、この時間ならめちゃ快適。
下り基調で、走りやすかった。
松阪市内まで、166号線で行く。
途中マックやすき家があって、寄ろうかぐらっと来たが我慢した(笑)
松阪市から亀山市までのルート
↑ブルべのルートを参考にさせてもらった。
とても走りやすかった。
ルートセッターに感謝しながら、走る。
松坂城下町
松坂城は、標高38mの独立した丘陵、四五百森(よいほのもり)に築かれた平山城。
1588年豊臣秀吉によって南伊勢約12万石を拝領し移封された蒲生氏郷(がもううじさと)が、夜を日に継いでわずか3年で完成させた。
1644年天守は台風で倒壊。
1871年廃藩置県で廃城となる。
1877年失火で焼亡する。
1889年町村制で「松坂」から「松阪」になる。
石畳に赤い郵便ポスト
町並みが城下町っぽくなってきたな
御城番屋敷
石畳の両脇に美しく整えられた槇垣を巡らした御城番屋敷。
松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷みたいです。
何より驚くのは、屋敷に今も子孫の方が住まれている。
現存する江戸時代の武家屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物で、平成16年、国指定重要文化財に指定された。
20戸のうち松阪市が1戸を借り受けて復原整備を行い、平成2年から一般公開している。
今回は早朝で見ることは、出来なかった。。
この写真を撮っていたら・・・
自転車旅あるあるで、サイクリスト(?)70歳のおじ様(以下:Mさん)がどこからきたから始まり談笑しはじめた。
N「桜見に来たんですが、まだですね」
M「上に咲いとるで、連れて行ってやるわ~」
そんな感じでMさんとの、楽しい時間が始まった。
どこから来たのかで、地元が近い事もあって意気統合した。
角櫓跡
西方面の眺望が良くて、山々が一望できる場所。
ここは一番陽が当たるから、桜が早く咲くんじゃ(Mさん)
堀坂山は、わしが小さい時から登ってる山だ(Mさん)
市民に愛されている山なのか、一度歩いてみたいね。
晴れ予報だったのに曇りですねと言ったら・・
晴れの日でも、朝は曇り多いんだわと(8時位から晴れてきた)
綺麗なさくらが咲いてます
こっちから撮った方が良いと、写真撮る場所も教えてくれます(笑)
松阪市内
黄砂の影響か霞んでいる
お城はみんなの散歩コースみたいで、堀の縁を歩いていく
下見たら20m位ある(汗)
普通なら安全策有っても良さそうだけど。。
藤見櫓跡を通過する。
そこで「藤見」と思ってなくて、「富士見」かと思ってて富士山見えるのか聞いた。
かつてはここに、藤があったんじゃ(Mさん)
昔は高い建物無くて、ここからも富士山見えたみたいだ。
野面積み
石垣も有名だから、写真撮ってけ~~(Mさん)
自然石がほぼそのままの形で積み上げられています。石と石の間に隙間があるため水はけが良く、堅固であるのが特徴です。天守跡や本丸跡のあたりで見られます。
松坂城跡最大の見所は、全国でも屈指の壮大な石垣です。
松阪市HPより引用
氏郷は、石垣工事に際して近江から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石垣専門の職人を呼び寄せたといわれています。松坂城築城当初の石垣は「野面積み」と呼ばれる工法で、江戸時代の石垣修復時に積み直された石垣は「打込みハギ」や「算木積み」と呼ばれる工法が使われています。
御城番屋敷
屋敷を一望できる。
わしが小学校の時、先生がここに住んでいたんじゃー(Mさん)
江戸幕府末期の1863年に建てられた。
161年が経っても、こうして残され住まれていてすごいなと。
そこで何でこのような、城下町が残っているのか聞いてみた。
「戦時中、B29の空襲被害を受けなかった」
「商人の町だったから、空襲する意味が無い」
「桑名や四日市などは、軍事設備があったから空襲被害を受けた」
御城を巡り自転車置き場に戻った。
M「これからどうすんじゃ」
N「伊勢街道を走って帰ります」
M「そうか、わしも街道沿いやで行くか~」
そんな感じで再び、走りだす。
本居 宣長(もとおり のりなが)宅跡
医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し「古事記伝」など著述を成す。
三井家発祥地
三井高利は、1622年この地で生まれた。
呉服業(越後屋)と金融業(三井)で大成功した三井は、現在の三井グループになっている。
デパートの「三越」は、三井(創業者)と越後屋の頭文字取って名付けられたんじゃ(Mさん)
旧長谷川治郎兵衛家
木綿栽培と染織技術で、「松阪縞」を生産し江戸で売り出していた。
旧小津清左衛門家
紙で名をはせた。
17世紀ごろから、松阪商人は江戸・京都・大阪に出店していた。
松阪商人は伊勢商人とも呼ばれ、日本三大商人(大阪商人・近江商人)の一つ。
今では中を見学できるが、早朝で閉まっていた。
美味しい松阪牛を食べれるで有名な「和田金」や「牛銀」などこの近くにあった。
↑自分は、お値段高すぎて気にもならない(笑)
阪内川
堀坂山が見えるじゃろ(Mさん)
親しまれている山なんだな~
桝形道路
城下町にある特徴的な造り。
敵の侵入を待ち構えたりするためじゃ(Mさん)
確かに側溝が、ずっと真っすぐじゃないな。
↑「ととや」
通りすがりに、わしここじゃ~と。
えっ!~大将じゃないですか。(ここで帰るかと思いきや)
津のとこまで、行ったるわ~と。
薬師寺
立派な銅造阿弥陀如来像・銅造釈迦如来像
伊勢街道沿いには、今尚古い屋敷・蔵が残されていたりする
大将速いです。。。
時速20km/h越え(元気過ぎ)
松浦武四郎生誕地
北海道の名付け親と知られる。(全然知らなかった。。。)
蝦夷地(現:北海道)に、何度も調査したみたいだ。
最初は「北加伊道」だった。アイヌ語の加伊=人間を意味する。
伊勢街道沿いだけど、現在は橋が西側に付け替えされている。
土手に上がる為、階段がある。
押し歩きで上がる(激重い。。。)
出雲川
ここから津に入る。
紀州藩がここまでやでなと。
話しの中で、ちょこちょこ出てきた。
その時あまり分かって無かった。。
江戸幕府の徳川時代に作られた。
徳川御三家(尾張・水戸・紀州)の一つで、紀州徳川家。
↑和歌山博物館HPより引用
ここでお別れとなった。
1時間半程、御一緒させてもらった。
ガイドさんかと思うくらい詳しく説明してくれた。
見えなくなるまで、手を振ってくれていた。
ウルっとくるじゃないか~~~~
津
再び伊勢街道を北上していく
三重交通バス
狭い道路なのに、お疲れ様です。
津安濃監獄
津市役所前
日曜日の朝はガラガラで走りやすい
津城
3分咲きくらいだろうか
亀さん日向ぼっこ中(笑)
ええ道やな~
ルートセッターに感謝。
中勢バイパスの23号線と交差する
朝食
パスタ・ザバス・ビタミンジュース
朝出発前おにぎり食べただけだったが、大将と出逢いお腹空いていたのも忘れる(笑)
奥には錫杖ヶ岳が見える
ソメイヨシノは3分咲きかな。
鈴鹿山脈南部の山々が見えてきた
家まで近くなってきたぞ
関宿
鈴鹿川を越えた
関宿
誰も居ない。。
いつもならもっと人居そうだが、どうしたものか。
東の追分(おいわけ)
この鳥居は20年に1度伊勢神宮御遷宮の折に、宇治橋詰から移し替えられるものみたいだ。
静かな関宿
小萬の湯(足湯)
この横の公衆トイレはよく使わせてもらうが、ここに足湯あるの初めて気付いた。。
結構人が居て、足湯を楽しんでいた。
ここよりブルべのルートとはお別れして、家へ走りだす。
鈴鹿山脈の山麓線を走って行く
養泉寺の枝垂桜
綺麗だったので立ち寄り写真を撮った
午後からは雲が増えてきた
・・・無事ゴール!!!
結び
今日は松坂城下町で、お腹いっぱいになった。
その後は、ほぼほぼ惰性で走っていた。
大将と出逢え、とても有意義な時間でした。
ありがとうございました。